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随想――京都における地蔵信仰 (3)
    「六地蔵」とその背景を考えてみる
                         村 雀  渉

1 六道の亡者を救済する六地蔵信仰から、地蔵菩薩を本尊とする、あるいは地蔵堂のある寺院を六カ所巡る「六地蔵参り」も京都にはある。伏見の大善寺、鳥羽の浄禅寺、桂の地蔵寺、常磐の源光寺、鞍馬口の上善寺、山科の徳林庵の六カ所である。

 毎年地蔵盆とその前日に六カ所を回るとご利益がある、と賑わうが、平日はどこも閑静、頒布所もなく御朱印受付もない。

 平安時代の貴族で、文筆の才能から「昼は朝廷に仕え、夜は冥府で閻魔庁の書記を務めた」と言われ、京都東山区の六道珍皇寺(ろくどうちんこうじ)や上京の千本閻魔堂など地獄信仰と関わる寺院とも関係の深い人物、小野篁(おののたかむら、802-852)が関係する。諸寺の縁起によると。篁が重病で臨死体験をした時、地獄から呼び返してくれた地蔵菩薩の像を六体刻み、大善寺に収めた、のち後白河法皇の命で(平清盛とも)京都の六つの入り口に分置された、と言う。

 地蔵盆の時は各地蔵堂の本尊も公開され、大にぎわいの画像をネット上でも見ることが出来る。彩色がよく残り、白面なのは化粧地蔵の白面に影響を与えているのかも知れない。


2 地蔵堂の菩薩像、或いは路傍の石地蔵が信心の人を助ける話は各地にあるが、京都の民俗学関係ではあまり見ない。民話でなく僧侶による仏教の法話になるからかもしれない。地方の伝説には妖異をなし高僧・豪傑にこらしめられる不良石地蔵の話もあるが、さすがに京都では聞かない。

 南区の九条通りに面した平安京羅城門跡に石仏石塔を集めた一角があり、その石仏の一つに「矢取地蔵・矢負地蔵とも」と説明板がある。「弘法大師が神泉苑で雨乞いの祈祷比べをし、他の僧の祈祷を破った。破れた僧は大師を殺そうと背後から矢を射かけた所、矢はこの石地蔵の背に刺さり大師は無事だった」と記されている。

 北区の北野紅梅町の地蔵堂には「御首地蔵」とあり、「むかし辻斬りがよく出たので犠牲者供養のため石地蔵を置いた。霊験あって辻斬りの被害は収まったが、ある日地蔵の首が落ちていた」と意味不明瞭な説明がある。石地蔵が剣豪と化して辻斬りを一刀両断、とは言えないからだろうか。

 よく京都の怪異譚に取り上げられるのは左京区聖護院の「人食い地蔵」である。源平合戦の保元の乱で失脚、配流先の讃岐で崩じた崇徳上皇(1119-1164)の怨霊を鎮めるために建立したが、京雀達が「すとくいんじぞう」を「ひとくいじぞう」となまって読んだから、と言う「人を食った」話である。

 その他「田植地蔵」、「油掛け地蔵」、「世継地蔵」、「とげ抜き地蔵」など多数がある。


3 絶世の美女で歌道にも秀でた小野小町は伝説も多いが、老境に至り、若き日々に男たちから届いた大量の恋文を貼り固めて地蔵像を作り供養した、という伝説もある。伝・小町恋文の地蔵は、東山区東福寺の塔頭(たっちゅう)退耕庵(たいこうあん))に「玉章(たまずさ)地蔵、小町生誕地とも伝える山科区小野の随心院(ずいしんいん)に「文張(ふみはり)地蔵」の各一体を伝える。
 退耕庵像は粘土製の塑像であり、小町は9世紀の人なので地蔵菩薩信仰が広がる前と、どちらも伝承の域は出ない。

 

4 京都府は日本海にも面しているが、六道世界自由自在往還の地蔵菩薩は海難者の慰霊も担当されるようで、海難者供養の石地蔵は全国各地の海浜の墓地に見られる。

 長崎県壱岐島には磯の海中に六地蔵が並んで建ち、広島県三原には磯の巨岩に地蔵菩薩の浮き彫りがある。どちらも大潮の満潮時には首まで海につかると言う。

 海上安全、海難者供養の他クジラなど海産物の供養なども祈られているとされる。


5 天下麻の如く乱れた戦国時代、諸国大名は上洛と天下取りを夢見てその本拠地を京都のような町割にし、祇園八坂神社や愛宕神社を勧請、亡命公家を招き和歌、香道、蹴鞠(けまり)、茶道などを学ぶなど、「小京都」の建設に力を入れた。

 越前の朝倉氏も例外でなく、現福井県一条谷に豪壮な館、山城、武家屋敷、巨石を惜しげも無く使った庭園を備えた寺院などを構えた。しかし天正七年(1573)に織田信長により攻め落とされ朝倉氏は滅亡、一条谷は廃墟となった。

 その遺跡の発掘調査の折、朝倉氏時代の石仏が多数残っている事が判明した。遺跡関係の室町時代後期の石仏は約1.000体、その大半は地蔵菩薩で、残りは阿弥陀如来、観音菩薩、不動明王などであった。石地蔵は戦死した武士の供養の為の物が多いという。

 朝倉氏は天台系浄土宗の、真盛上人(1443-1495)への信心が篤く、天台真盛宗の寺院もある。石地蔵の大量造立はこの僧侶たちの勧めによるらしい。

 この時代の京都には「小」京都・一条谷のような秀作の石地蔵はないようである。天台真盛宗派北陸方面に広まり京都は影響がなかったためか、それとも信長による比叡山焼き討ちの余波で破壊されでもしたのだろうか。


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